俳句と連想 - 夏
← Return to top page. ← Return to before page. Go to next page. →出典:己が光 年代:元禄3年(1690年:芭蕉46才位)
ほととぎすの声を聞いていると、現在京都にいながらいまさら京都が懐かしくなる、の意味
ほととぎすの声をはじめて聴いたのは松山市に転勤してきてからだった。夏を告げる渡り鳥ではあるが、つばめのように全国つづうらうらに来てはいない証拠である。一方、いつも来る地域では毎年間違いまちがいなくやってくるから、そこらの人は全国どこにでもきていると勘違いしていることだろう。いずれにしてもま真近で聞くとその鳴き声はとてつもなく大きくて驚かされる。
(はるか)
出典:七番日記 年代:文化10年(1813年:一茶50才位)
大の字に寝ころんでも、誰に気兼ねすることもないが独り身の淋しさを感じてしまう、の意味
一茶の句はいずれも素直で分かりやすくかつ詩情豊かで今なお多くの人に愛されている。人が生まれてはじめて強烈な寂しさを感じるのはどういう時であろうか、例えば、最愛の人に先立たれ、その心を癒そうと深く考えもせずふらふらと遥かなる異国に行ってみたが、来たことのない浜辺に立つと反ってむなしさにおそわれ涙があふれて思わずあてもなく走り出してしまう時だろうか。
(はるか)
出典:蕪村句集 年代:安永6年(1777年:61才位)
五月雨が降り続いて、水かさは刻々に増している。大河は滔々と濁流をみなぎらせている。その決壊するかもしれない大河を前にして、2軒の小さな家が並んでいる、の意味。
2015年9月10日午後0時50分、茨城県常総市の鬼怒川の三坂町付近の堤防が延長200mにわたって決壊し大被害が出た。その生々しい様子がテレビで放映された記憶は新しい。
このところ日本では津波、火山噴火、大洪水など様々な自然災害が発生している、日本人はそれを決して他人事と思わず、常々備えなければならないし、近辺でそういうことがあれば助け合わねばならない。
(はるか)
出典:寒山落木巻一 年代:明治25年(1892年:子規25才)
あげばも今はひっそりとして鱗だけが残っている、そこに夏の月がほのかにさしている、の意味。
ふるさとの漁港には「あげば」という場所があった、漁船が夕方帰ってきてあわただしく獲物を荷揚げするところである。夜が更けると漁師とその家族はいつものように翌朝の出漁に備えて早々と帰宅してしまうし、魚を氷づめにしたトラックも市場に向けて走り去るので「あげば」は静けさを取り戻すのであるが、どこかで子供の声がすると思ったら村の子が2、3人薄暗いふなべりで小アジを釣っているのであった。
(はるか)
出典:猿蓑 年代:元禄3年(1690年:芭蕉46才位)
鳴きたてる蝉の声を聞いていると、秋を待たずに死んでしまうような様子は見えない、の意味。
この俳句を主観的にとらえると私の連想は深まる。まず、死を直前にしたときの人間は「死ぬかもしれない」という予感がするものだ、そのときどのような言動とか行動をとるかは人によって違うと思われるが、墜落する飛行機の乗客がメモに残したように、まず家族に「今までありがとう」と伝え、仕方がないので、もはやこれまでと観念するのではないかと思う。
(はるか)
出典:寛政句帖 年代:寛政4年(1792年:一茶29才位)
湖水の彼方に沸き出た真っ白な入道雲が、青々とした湖水の底に影を映して動かない。
あたりはしんとして、炎熱の中に静かさが感じられる、の意味。
この俳句からは私の連想は生まれない、なぜだろう、それはたぶん非の打ち所がない名句であるからだ。そこに心が引き込まれてしまい抜け出せないのである。おそらく、名画や名曲を見たり聞いたりした時も雑念は生じないと思われる。
(はるか)
出典:蕪村句集 年代:安永三年(1774年:蕪村58才位)
野ばらの花が咲き群がっている。
この路は幼いころに歩いたふるさとの路に似ている、の意味。
私の故郷の通学路の道端にも初夏からいたるところに野ばらが咲いていた。その花々は極めて単純であり子供心を誘うものではなかったが、中学校の唱歌の時間に「野ばらのうた」を習ったら少し興味が湧いてきて帰り道でなにげなく手を伸ばして触ってみたら、「あっ痛」、鋭いトゲに刺されて驚いたものである。今でもあの道には夏が来たら咲くのだろうなあ。
(はるか)
出典:三顔合 年代:不明
落ち鮎が、死へ向かって流されてゆく。それが日を追って数も増え、目前に冷酷非情な実態を見せつけられると、底知れぬ恐怖のようなものを覚える、の意味。
千代女の心境はそうであったかもしれないが、私はそんな心境にはなれない、落ち鮎は死ぬために河口に向かっているのではなく、未来のために河口に向かっているのである。人生もしかりだ、死ぬために生まれてきたのではない、未来のためになる人を育てるために生まれてきたのである。
(はるか)
出典:五百句 年代:明治41年(1908年:虚子34才)
うるさく飛んでくるこがね虫をつかまえて庭になげ捨てた、すると、こがね虫は消え「闇の深さ」にはたと気付いた、の意味。
これまた名句である。凡人ならこがね虫をつかまえて、手のひらに痛みを感じたとか、外に逃がしてやったとか言うところだが、感性豊かな虚子は「闇の深さ」を感じたのである。さらに優れている点は「なげうつ」という表現である。凡人なら投げ捨てたとかいうだろうが虚子は「なげうつ闇の」という七文字で「深さかな」の五文字にピタッと繋ぎ、余韻を残して決めている。
(はるか)
出典:続春夏秋冬 年代:明治39年(1906年:碧梧桐 33才
雲の嶺から暑い夏の日の広大勇壮な景が思い浮かび、それに対して小さな蟹の死骸を点出、
それもハサミをのばして、何か雄大なものを求めようとして、空しく終わっている姿と見たのである。
私も何度か蟹の死骸を見たことはある。しかし、それを俳句の題材にするという発想は私には生じないと思う。それを題材にしたところが碧梧桐の碧梧桐たるところだろう。人はみな子供のころには大志をいだくがなし得る人は少ない、碧梧桐は蟹の死がいを通して人生の空しさを彼なりにたくみに表現しているように思える。
(はるか)