弟との想い出
弟は1948年(昭和23年4月15日)に大潟町の我が家で生まれた、私はそのとき5歳だった。
1.よちよち歩きの弟は(2歳、私は7歳)たいへんないたずら小僧だった
ある日、母が弟のいたずらぶりに怒って「やいと(お灸)をしてやる」と馬乗りになって彼を押さえつけた。兄(私)は弟を助けたい一心で「秀男の代わりにぼくにお灸をして」と母に懇願した。すると、母は弟を離して私に「指をお出し」と言ったので、「うん」と右手を出したら、母はさすがに気が引けたのかやめようとしたようだが、なぜかやめずに米粒くらいの小さなもぐさを私の人差し指の付け根に載せて「熱くなったら言いいよ」といって線香で火をつけた。最初はなんともなかったが、しばらくすると猛烈に熱くなり痛くなったが私は歯を食いしばって我慢した。母は私のそんな様子を見て「ばか」と、私のもぐさを払いのけ「ごめんよ、ごめんよ」と泣きながら私を抱きしめた。弟はそんな兄と母の姿をみつめていた。それ以後、弟は兄を慕うようになり兄も今まで以上に弟をかばって二人で母の畑仕事などを一生懸命に手伝うようになった。
2.入社した兄を必死で励ましに来た弟
私は18歳で高松に本社がある会社に入社した。入社式の4月1日、母と弟が私を見送りにきた、橘駅までかと思ったのに二人は高松駅まで汽車に乗ってついてきた。途中で弟は次第に汽車に酔ってきて苦しみはじめ何度も吐いたりした。二人はとんぼがえりで帰ったが私は心配でたまらなかった。
入社して、会社の屋島にある研修所で教育訓練を受けていたとき、入社後1か月目の日曜日に突然弟がなんの前触れもなく私に会いに来た。あんなに汽車に酔うのになんで来たのか私は聞かなかったが彼の気持ちだけは痛いくらい解っていた。兄が落ち込んでいたら励ましてやろう(助けてやろう)と必死になって会いに来たのを私は感じていたのだった。私は最初こそはホームシックになどなってはいなかったが、彼がまたとんぼがえりで屋島の駅から「ほな帰ってくるわ」と帰ってしまったら、無事に帰っただろうかなんぞみやげを持たせたかった。と私は反省し心配になったのだった。(私が18歳、弟は中学校2年で13歳、屋島の田んぼの蓮華の花が満開の時期だった。)
3.弟との別れ
1998年10月10日、家族に見送られて、母が病気で亡くなった。その母の墓前で「兄ちゃん、何かあったら頼むけんな」と弟がポツリと言った。「何を馬鹿なことをいうな、お前のほうが若いんぞ」私は彼を叱ったのだった。彼は繊細で天才的な詩人であったから、私は彼が何か予感を感じているなと思った。1998年12月24日、彼は50歳の若さで彼自身が予想もしなかったであろう病気で逝ってしまった。
私はその12月26日、彼の告別式を行い、そしてまだ熱い彼の遺骨を抱いて、彼を彼の家に連れて帰ったのだった。