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 うなぎの夜釣り

 梅雨の季節から夏休みのはじめころにかけて、小学生だった私は実家の前の防波堤でいつもの夏休み同様に、楽しい「うなぎの夜釣り」に挑戦するのであった。

 これを始めたいきさつは、近所の(斜め隣の)小太りの「桶屋の(禿げ頭の)おじいさん」が、毎年、夏の初めころに私の家の前の防波堤の上にやってきて、いつものようにどうやら風呂上りにコップ一杯の冷酒をあおってきたらしく、ひたいには健康的な透明の汗を少しだけ浮かべて、例によって、古めかしいだいだい色の団扇(うちわ)をパタパタさせて夕涼みをはじめるのであった。そして、いつものように、小さな声で「憧れのハワイ航路」を歌いつつ、うなぎ釣りの竿を2本しかけてそれからは無言で竿先に神経を集中させている様子だった。

 幼児の私は少し離れたところに腰を掛けてじいさんの様子を観察しているのであった。

「きたぞ!」じいさんは呟く、2本の竿のうち一本だけ竿先が小刻みに揺れている、うなぎが海底で用心深く付近の様子をうかがいながら、エサのミミズをつついているのである。やがて、1分くらいで揺れは一瞬止まる、うなぎがミミズを釣り針ごと飲み込んで味わっているのだ。さらに1分、うなぎは何事もなかったかのように帰ろうと動きはじめる。竿先が大きくしなり、うかうかすると竿ごと海中へ引き込まれてしまうほどの強さである。じいさんは無言で竿を立ててうなぎを引き寄せようとする、うなぎはうなぎで生まれて初めての恐怖に襲われ必死になって逃げようともがくが時すでに遅し、あわれうなぎはじいさんに釣りあげられて結果的に私の家の畑の手前の小道まで釣糸が付いたまま飛ばされて落ちてきて暴れ狂っている。間髪を入れずじいさんが防波堤からまるで若者の様に敏捷に飛び降りてきて、うなぎの頭をいつもの小石で一発軽く殴って気絶させ、針を外して籠(かご)の中にさっさと入れてしまう、その器用なこと器用なこと。

 幼児の私が10歳くらいからじいさんの隣に座って、手製の粗末な竹竿を並べその真似をはじめたのが私のうなぎ釣りのはじめだった。エサは家の畑で掘ったミミズである。3mくらいの竹竿に3mくらいの釣糸を付け、うなぎ針をくくってそれにエサのミミズをしかけて足元に沈めておく、すると日が暮れるころにうなぎがやって来てエサを針ごと飲み込んでくれる。飲み込んでいるあいだは竿先が揺れているが、辛抱強く相手(うなぎ)が飲み込むまで待つ、2分くらい待つとうなぎは満腹して帰ろうとする。竿先がグイーと引っ張られる。そこで私はゆっくりと竿を持ち上げ始める。うなぎは驚いて暴れながら逃げようとする、それを逃すまいと私は必死で竿を立てる。この時の感触がうなぎ釣りの快感となって記憶され、新たな挑戦へと繋がっていくのであった。

 58年後の今、思い出すと、あのころのうなぎは実に簡単に釣ることができた。じいさんは2本の竿を器用に操り、毎日2匹釣って(その日はそれ以上は釣らず)得心したのだろうか、悠々と夕涼みを終えて、2本の竿をしまい、宵闇の中、いつものように感心して傍観している幼児の私には特段話しかけることもなく帰って行くのであった。

 今になって思うことだが、私が若しあのじいさんの立場だったら、防波堤の上で傍に寄ってきて見ている他人だけど可愛らしい子供に面白い小話をしたりして、帰り際には「坊主よ、一匹やるから持って帰りな、わしは毎日2匹もいらんけんな」というようなことをしていたように思うのだが・・・

 ところで、私が10歳になって以降、私が釣ったうなぎは持ち帰ると母親がみごとな「かば焼き」にしてくれた。50cmくらいの程よい大きさのうなぎだと、一匹あれば家族4人くらいなら立派な夕食になるのであった。

 かば焼きは七輪に炭火を起こし、網を乗せてその上に三枚に開いたうなぎを皮が下になるように(身が上向きになるように)並べて焼く、ある程度やけてきたら上から醤油を垂らす、するとお馴染みのあの強烈なうなぎのかば焼きの香りが煙となって立ち昇るのである。焼きあがってきたら、もういちど醤油をまぶして軽く焼くすると、一層うまそうな香りがするのであった。しかし、人間はぜいたくなもので、2日目もうなぎのかば焼きだといやになり、「あ~あ、むつこいな~、うなぎのかば焼きは連続では食べれん、光彦よもう釣ってきたらいかんぜ」と母がきまって言うのであった。

 そんな訳で、例年の夏休みのうなぎ釣りは結局年に2~3回程度で終わってしまうのであった。ところで、桶屋のおじいさんであるが、年に10回くらいはおおきなうなぎを2匹/毎回くらいも釣って帰りよったが、家族もいないようだったのに、いったいどないしよったんだろうか?朝から晩までうなぎのかば焼きばかり食べよったんだろか?それは聞いたこともないので今でも謎のままである。ちなみにじいさんは90歳くらいまで長生きしたとのことである。