初代のページ-(創作)
1.太田家の初代先祖
氏名:太田クマ(女)1820-1889、明治22年7月18日死去、享年69歳
1820年とは、江戸時代の文政3年のことである。
推察
クマの父の名は阿波の国、大潟村の豪商人、3代目平野屋の利平であった。母の名はみどり。なにゆえに可愛い女の子供に「クマ」などと、平成の我らから見ると不思議というより、不気味な名前を付けてしまったのか?、推察するのも腹立たしく嫌になるくらいだが、インターネット等で調べても詳しいことはわからない。ただ、昔は医学が発達しておらず、衛生状態も現在のように良くはなかったため、幼子が病死する確率は想像以上に高かったようである。位牌などでも明らかなように幼子の生存率は50%程度だったのかもしれない。そこで、利平は考えた、この子を何とか長生きさせたいと、ならば、疫病神もこの子を恐れて退散するようにと、とっさに浮かんだのは恐ろしい熊の顔だった。がしかし、さすがの利平も我が子の可愛い寝顔をみているうちにそのクマなどという名前だけは止めようと思い直したのであった。ところが、妻のみどりが、この子の名前はシシではどうでしょうかなどと言い出したので「おもわず、馬鹿野郎、この子は足柄山の金時さんと相撲をとっていたクマさんの生まれ変わりに相違ないから名前はクマにするのじゃ」と余計なことを思いつきで言ってしまったのだそうである。まわりの者たちも、一瞬感心して「なるほど」などと相槌をうってしまったものだから利平はひっこみがつかなくなり、かくしてクマという名前に決まってしまったのであった。(クマには2歳年上の兄がいて、後日、その兄が4代目利平となり、先でクマが人生最大の困難に出くわしたときにクマを助けてくれることになる。)
名前が良かったのかクマはすくすくと育ち、1835年から1837年にかけて天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)があったりしたものの、たいした病気にもならず、明治22年まで(69歳になるまで元気に生存)したのであった。
2.幕末の時代背景
ペリー艦隊が、1853年7月14日(陰暦6月9日)に浦賀に来航した。翌1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に、ペリーは旗艦サスケハナ号をはじめとする7隻の艦隊を率いて再び浦賀に来航して開国と条約締結を求めます。幕府はその軍事力を背景とした強硬な要求に抵抗し切れず、1854年3月31日(旧暦3月3日)に神奈川で『日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)』に調印したのでした。
阿波の国の大潟町では、当時は新聞もなかったので、そんなニュースなど誰も知らなかった。クマは兄の二代目利平を助けて毎日かいがいしく働いているうちに年齢も35歳となってしまっていたのであった。
3.クマの結婚、その子直吉の誕生、亭主の急逝、平野屋への出戻り。
クマは4代目利平の妹であったが、安政元年(1854年)、クマ34歳の時に利平の勧めで、近所の屈強な漁師(推定では35歳、名は太郎:仮名)の後妻として嫁ぎ、翌年の安政二年(1855年)に、亭主とクマの間にできた子(名前は直吉)を出産したが、不運なことにその年末に亭主が病気で急逝してしまったのであった。その家には、先妻の子供(15歳の男の子、名前は不明)がいて、クマの亭主はその子を漁師の跡継ぎにすべく育てていた。そのころの大潟村の風習では、先妻の子供と言えどもその子が男の子ならば、跡取りとなるのが当然であったと思われる。亭主の死後、その子は父親の跡を継いで漁師になったものの、まだ未熟で魚の水揚げが少なかったこともあり、たちまち家の生活は困窮してきたのであった。それでも、その子はクマと直吉に対して優しく「いつまでも一緒に暮らそう」といってくれたが、クマはこのままでは3人共倒れになると思い、兄の利平に相談したのであった。兄は、「とりあえず、クマと直吉は平野屋に戻ってきなさい、平野屋に戻ってきたら、家にある畑と小さな納屋を譲るからそこで直吉を育て、直吉が結婚したら新たに太田という苗字で戸籍を届けるようにしてはどうか」と提案したのであった。かくして、クマは兄のはからいで、平野屋のそばで(世間から見れば出戻りとして)暮らすことになった。
結果的に、クマは兄利平のはからいで、平野屋の敷地内にある小さな納屋を住まいとして使わせてもらい、そこで直吉を育てながら生きてゆくことになった。つまり、敷地内ではあったが平野屋の家族ではなく、新たな太田家の祖先(現存する位牌での太田直吉)の母になったのである。
なお、クマの嫁ぎ先であった家と、その家に残って主(あるじ)となった15歳の漁師についての生涯は定かでないが、たぶん、釣ってきた魚をクマに届けたりしていたのではないかと思われる。そして、立派な漁師になって大漁をするようになってからは、後述のように、その魚をクマが行商して両家の収入にしていたのではないかと推察される。
4.4代目平野屋の消滅とその子達の運命
伝説によれば、大潟村の4代目平野屋利平は、1860年ごろに病気で急逝したとのことである。亡くなった利平(クマの兄)には幼い長男(名前と生年は不明)とさらに幼い長女(名前はヲタカ、生年不明)があったものの、二人ともあまりにも幼かったために平野屋の跡継ぎにはなれず、平野屋という屋号は大潟村から完全に消えてしまったらしいのである。
(1)利平の長男について
利平の死後、利平の弟(平野屋系太田の新宅、名前は不明)が利平の幼い長男とともに利平の財産をも引き取ってその長男を育てたらしい。 時代は流れ、太平洋戦争後、その平野屋利平の子孫が大潟村にあった利平の墓を訪れ利平の墓の魂を抜いて持ち帰ったということがあった。
なお、それまではクマの子孫である太田克巳および克巳の妻フサエが、母屋(平野屋利平等)の墓をたいせつに守ってきていたのだが、子孫が墓(の魂を抜き取り)神戸に持ち帰ったので、利平の墓石とその区画は慣例に従って大潟村の墓地に返納されたこともあり、平成23年現在では、もはや昔の平野屋の栄華を忍ぶ術(すべ)は何もないのである。
(2)利平の長女ヲタカについて
推察ではあるが利平の遺言によって、利平の妹クマがヲタカを引き取って育てることになり、クマは我が子のようヲタカを可愛がっていたが、クマが42歳(直吉は7歳)の時の文久2年(1862年)にヲタカは病気となりクマは必至で介抱したが残念ながら病死してしまった。
(ヲタカの位牌には享年のヲタカの年齢が記載されていない、位牌には享年の年齢を記載するのが江戸時代からの習わしであったにもかかわらず、記載されていないということは、どうやらクマはだいじなヲタカの年齢を利平から正確に聞いてはいなかったのではないかと推察される。ただ、ヲタカの位牌がクマの家にあり、「亡き利平の子」「童女」と記されていたので、ヲタカはクマに引き取られた時には童女であったことは間違いのない事実である。)
5.クマ家の苦難
クマが出戻ってきた直後は、平野屋からのコメの差し入れがあり、クマと長男直吉は何不自由なく生活できていた。ところが、突然の不幸で平野屋が没落してしまったので、クマ家は食料が途絶え自給自足しなければならなくなった。
(1)自給自足に畑の活用
クマは利平が生存中に、敷地内の納屋および畑は、お前(クマ)に譲るとの確約を得ていたので、そのように役所に届け出をし、正式な登録を済ませていたことが不幸中の幸いとなり、畑を活用して芋や野菜を栽培して自給自足の生活を営むことができた。
(2)収入の必要性
自給自足で餓死する心配はなかったが、直吉を自分の跡取りとするためには教養を付ける必要があった。また、健康的な生活を営むには経済面での最低限の収入が必要であった。
(3)クマの行商開始
大潟は漁師町で、クマのような亭主がいない女性たちは自活するために、昔から近辺の村で魚を売り歩くいわゆる行商をするのが通例であった。お嬢様育ちのクマにとっては子供時代には考えてもみなかったことではあったが、今となっては直吉を成人させるために、また、本人も名前はクマでも30代後半の独身女であるから清潔な服装と態度をきちんと整えなければ近所つきあいもままならぬことは百も承知であった。
伝説によれば、クマが女漁師として活躍したとの説もあるが、推理としては行商人として自活したとの説が当時の環境に照らすと自然である。
6.クマの子、直吉の就職と出世
(1)10歳で寺子屋を首席で卒業、北前船阿波丸のかしき(料理人見習い)として就職。
(2)成績優秀につき15歳で阿波丸の航海士に抜擢される。
(3)操船および経営能力抜群につき20歳で阿波丸の船長となる。
7.直吉の結婚
1874年、明治7年、直吉20歳で結婚、このとき母クマは54歳の春であった。
8.孫の誕生
1875年、明治8年、直吉の長女アサの誕生、以後1年ごとに孫3名(女性)が誕生
9.クマの逝去
1889年、明治22年7月18日死去、享年69歳