3代目のページ
1.氏名
(1)3代目亭主
氏名:太田周次郎(男)1878-1937、昭和12年7月21日死去、享年59歳
1878年とは、明治11年のことである。
(2)その妻
氏名:太田アサ(女)1875-1956、昭和31年4月5日、享年81歳
1875年とは、明治8年のことである。
2.歴史的背景
日清戦争 明治27年~28年
日露戦争 明治37年~38年
大正2年、徳島-小松島間に鉄道ができて汽車が走る
大正9年、県道として認可、富岡-大潟に通じる道、橘-椿泊に通じる道
昭和11年、徳島-桑野まで鉄道が開通した
太平洋戦争 昭和16年~昭和20年
3.2代目との続柄
太田アサは2代目太田直吉の長女、周次郎はその婿養子(明治35年に入籍)
4.アサと周次郎の結婚
(1)二人の長男、静雄(故人)の位牌から推察すれば
アサと周次郎の結婚は、明治35年と思われる、アサ27歳、周次郎24歳
(2)結婚のいきさつ
周次郎の乗った椿泊の漁船が漁獲物を水揚げするために大潟の港に立ち寄ることがあり、そこで太田アサと出会い結婚に至った。
5.アサ結婚前の太田家の状況
明治25年、太田家2代目直吉が37歳という若さで急逝し、直吉の妻リヱ(当時36歳)が残された4人の娘を育てなければならなくなった。リヱは明治25年から明治35年の間に、長女アサ以外の3人の娘について、次女は奉公に、三女、四女は親戚筋の養女として道筋を付けた。また、自分およびアサの生計を立てるため大潟の自宅で駄菓子屋を営んでいた。食料は主として自宅の畑で芋や野菜を栽培し自給自足できていた。
6.周次郎のおいたちと、結婚前の状況
写真は、周次郎の故郷、椿泊のたたずまい
(1)周次郎の幼年時代
椿泊は細長い山際の集落で前面(南側)は水深のある漁港になっている。4歳ごろから家の傍の(裏山の)天然林と目前の海(漁港の防波堤や、東側の岩礁)で友達と一緒に遊んだ。特に好きだったのは兄、姉や弟と一緒に遊ぶ磯遊びだった。
(2)周次郎の少年時代
少年時代は魚釣りが大好きだった。特に、夏の夕方に家の前の防波堤で鯵を釣るのが得意だった。
周次郎は、椿泊の田村家の二男として出生、田村家は旅館を営業していたが、長男が跡取りであったため、次男周次郎はどこかに養子として入るというのが念願であったと思われる。青年時代の周次郎は椿泊の漁船の乗組員として活躍していた。
(3)太田アサとの結婚
椿泊の漁船は、漁獲した魚類を椿泊ではなく消費地に近い大潟湾の揚場に卸していた。そこで、周次郎はアサと出会い、互いに惹かれあって結婚したのであった。
(4)結婚後
周次郎は結婚後、アサの母リヱの店の商品の仕入れに活躍し始めたのだった。
商品の仕入れは、何十キロも歩いて行かねばならず、既に46歳になっていた二代目女の太田リヱにとっては体力的に無理になってきていたと思われ、婿養子とはいえ跡取りになった24歳の頼もしい周次郎の存在は、アサのみならずリヱにとってもありがたかったと思われる。
7.太田家の発展
(1)周次郎の活躍
リエは10年の駄菓子屋経験を踏まえて、商売を駄菓子屋から雑貨屋へと発展させるには大潟だけでなく、商業の中心地である徳島市内に中継基地を構える夢を持っていた。つまり、とりあえず、徳島市内に家を借りて、ここで周次郎が大潟でリヱが売るための商品を集め、大潟に発送するという発想である。
このころ、周次郎の4歳上の兄の徳太郎(1874生まれ、1974(昭和49年)100歳)で逝去)が、廻船業を開始していた。なお、徳太郎には2歳年下の妹(伊島に嫁いだ、神野洋子さん)がいた。徳太郎は幼少のころから天才少年で、椿泊の中で大多数の同級生が漁師になる中、当時は誰もが考えたこともない壮大な夢を持っていた。その夢は自分で大きな船を保有して商売をしたい、そして陸の孤島であった椿泊を発展させたいというものだった。徳太郎は28歳で念願の船を進水させ椿泊の魚の干物を仕入、これを徳島で販売して徐々に成功を収めはじめていたのだった。周次郎はこの船便を利用して徳島で仕入れた呉服などの商品を大潟村のリエに送った。
(2)大潟には裕福な家が多かった
大潟は漁師町として発展栄えていた。このため住民は裕福な暮らしをしていたが、店がすくなかったので買いたいものが買えないという欲求不満があったと思われる。そこで、リヱは住民の要望を聞いて回りそれに見合う商品をリストアップして徳島の周次郎に集めさせるという営業を行ったものと推察される。
(3)徳島に進出
1918年(大正7年)、周次郎40歳、アサ44歳、リエ62歳、一家は商売を発展させるため大潟村の母屋をたたんで、徳島市富田町に進出、リエは徳島で呉服の仕入を行い、大潟村の山越商店などに卸していた。このころ、周次郎は兄徳太郎の船の船長となり、徳島→伊島→椿泊→大潟村の間を運航して腕を磨いていた。 そして、58歳で念願の機帆船椿丸(仮名)の建造を開始したのだった。
(4)リエの逝去
1934年、昭和9年1月13日死去、享年78歳
(5)周次郎の逝去と、椿丸の就航、1937年、昭和12年7月21日死去、享年59歳
周次郎は、跡取りの克己を椿丸の船長にしたかったのだが、克己は残念ながら近視で航海士免状資格が得られず、やむなく船長は克己の従兄弟の義一(神野義一、伊島の神野洋子の長男)とし、克己は機関長にすることにした。
周次郎は奇しくも椿丸の完成・就航を見とどけた58歳で入院、船は義一に譲り、その他の遺産、家族は長男克己に頼むと言い残して59歳で逝去した。アサ62歳、克己29歳
8.周次郎とアサの間に産まれた子供たち
(1)長女 キミエ
新浜家に嫁ぎ、活躍され幸せな人生を送られた。
(2)長男 克己 1908-1999
太田家四代目(後述)
(3)次男 隆久 1918-1999
徳島市で新宅として商売され大いに発展された。
(4)若くして死去された方々、静雄、亀市、スミエ、俊訓、米吉