4代目のページ

1.氏名

(1)4代目亭主
   氏名 太田克己  1908-1999、平成11年11月22日死去、享年91歳

   備考:1908年とは、明治41年のことである。

(2)その妻
   氏名 太田フサヱ 1913-1998、平成10年10月20日死去、享年85歳

   備考:1913年とは、大正2年のことである。

2.歴史的背景

大正2年、徳島-小松島間に鉄道ができて汽車が走る

大正9年、県道として認可、富岡-大潟に通じる道、

昭和11年、徳島-桑野まで鉄道が開通した

太平洋戦争 昭和16年~昭和20年

徳島大空襲 昭和20年7月4日

3.3代目との続柄

3代目太田周次郎の長男が2代目太田克己である。

4.克己とフサヱの結婚

長女の年齢より推定すると、昭和7年(1932年)頃、見合い結婚ではなかったかと推定できる。

克己25歳、フサヱ20歳

5.4代目の略歴

(1)克己

1915年(大正4年)、7歳で大潟尋常小学校に入学

1921年(大正10年)、13歳で上記尋常小学校卒業後、貨物船の乗組員となる

その後独学で勉強して、18歳で海技従事者国家試験に合格し、海技士(機関)免許を取得した。

1926年(昭和元年)、国内航路貨物船の機関長となる。

1932年(昭和7年)、24歳で太田フサヱ(旧姓:石川フサヱ)19歳と結婚

1973年(昭和48年)、65歳で退職

1999年(平成11年)、91歳で自宅にて死去

(2)フサヱ

1920年(大正9年)、7歳で那賀郡中野島村中野島東尋常小学校(後の横見小学校)入学

1926年(昭和元年)、13歳で上記尋常小学校卒業

1932年(昭和7年)、太田克己と結婚

1998年(平成10年)、85歳、入院先で死去

6.克己の子供時代(誕生日、明治41年1月1日)

(1)国民小学校(大潟尋常小学校)

 克己は周次郎の次男で幼少時代は大潟で育った。まじめで優しく頭の良い子で、3歳くらいでいつのまにやら時計を分解掃除して親を驚かせた。小学校での成績は抜群だった。

(2)スポーツ万能

 鉄棒が得意で大車輪のような大技をなんなくやってのけた。遊びでは水泳や潜水も得意で磯に潜らせるとすぐにサザエとアワビをばけつ一杯くらい採ってきたという。

(3)1918年、周次郎40歳、周次郎の廻船事業拡大により家族は大潟から徳島に転出

 克己は10歳だった。徳島の家は現在の徳島市富田町内、徳島の港の近く

(4)自転車が好き

 15歳の時に単独で四国88か所を自転車旅行したらしい

7.激動の時代を生き抜いた克己の青壮年時代

昭和7年、那賀川村出身の祖母リエの世話により、克己25歳で横見の石川フサ江と結婚、

昭和9年1月、長女誕生、同年1月13日祖母リエ逝去

昭和10年12月、次女誕生、

昭和12年 日中戦争の勃発、7月、父親周次郎逝去、克己30歳、

昭和13年、周次郎建造の船は乗組員もろとも軍事物資運搬用として日本軍に徴用された。

      船の名前は椿丸(仮名)船長は伊島の神野義一、機関長は克己、他に乗組員数名

昭和16年、太平洋戦争の勃発、椿丸徴用は継続、依然として日本と中国間の物資運搬に尽力

昭和18年9月21日、徳島市富田町で長男誕生

 長男は生後間もなく脳膜炎で入院し40度くらいの高熱が数日続いたが、伊島のおばさん(周次郎の姉)が見舞いに来て持ってきてくれた活きの良い魚(シラス)を食べさせたところ、たちまち熱が下がり回復したという。そのせいか、長男は68歳になった現在でも大の魚好きで特にシラスのすまし汁はもとより、生魚の握り寿司や、酢じめのボーゼーの姿寿司を食べさせると「ああこれでわしはまた長生きができる」と口癖のようにいうらしい。

昭和20年7月4日未明、米軍B29多数飛来して徳島空襲により徳島市内は焦土と化した。

 太田家家族は、付近の田園地帯に避難して全員無事だったが、住宅は被災炎上してしまった。B29が飛び去った後、運よく焼け残った自治会長さんが自宅でおかゆの炊き出しをして地域の人たちにふるまってくれた。その数時間後、母の実家の横見のおじいさんが、おにぎりをいっぱい持って助けに来てくれた時には、もう家族全員うれしくてうれしくて思わずワーワー泣いた。そして、おじいさんがやとったトラックで急遽、横見に避難することになったのであったが、トラックに乗るために県庁の近くまでかなりの距離を歩いて行ったとき、路の両脇は焼けて真っ赤になって炭化してカッカッといこった鉄筋や柱から出る強烈な赤外線で、路を急ぐ家族の皮膚は服を着ていてもやけどしそうなくらい熱かったのであった。それでもやっとのことで、トラックに乗ることができ、トラックに乗ったら安心して眠りこけてしまったのであった。那賀川の橋を渡ったところで、おじいさんがあらかじめ準備していたリアカーへと乗り継いだら子供たちはまた眠りこけてしまっていた。とにもかくにも、家族は生まれて初めての地獄のような空襲の現場から無我夢中で母の実家の横見の石川家にたどりついたのであった。 その後、家族は暖かい石川家の温情に感謝しながら、一週間ほどお世話になった。 その間、6年生の長女と4年生の次女は、おじいさんのはからいで横見小学校に通学させてもらったというが、2歳の長男(私)には空襲や逃避行の記憶はまったくない。 しかし、フサエはしっかりしていて、ここでいつまでも石川家に甘えてはおれんと考え、数日後に家族を連れて大潟村の実家に疎開した。(実は、大潟の我が家は、福原さんという若い夫婦に貸していたのであったが、あらかじめフサエが福原さんに空襲で焼け出された事情を話したら、福原さんは別の家があるということで、快く我が家を開けてくれたので運よく疎開することができたのであった。)なお、克己は徴用船椿丸に乗っていて瀬戸内海にいたのでそのようなできごとを後で聞くまでまったく知らなかったと思われる。

 ところで、祖母のアサは空襲時に家族と一緒に逃げていたが、(弱視のアサは乳母車にすがり孫たちに両脇から助けられながら転がるような足取りでそれでも必死に走って逃げていた)が、途中で、「もうここから先、うちはお前らと一緒に畑や田んぼの中を走ったりしてよう行かん、頼むけん私をここらへんに置いて逃げておくれ」と言い出したのであった。そのとき、神の助か、偶然運よくフサエが防空壕を見つけ、壕の主に弱視のアサを預かってもらえないかと必死で頼んだら「一人だけなら入れたげる」とのありがたい返事があったので預かってもらい、結果的にアサは命を失うことなく助かったのであった。そして、空襲後すぐに叔父の隆久さんが見に来てアサを疎開先の大野の津田さん方に連れて行ってくれたが、数日後に、アサも大潟に戻り家族は無事合流したのであった。

昭和20年8月15日、終戦

8.大潟での戦後生活が始まる。

 克己は、家にあった小舟で、毎日、家族を養うための蛸釣りにでかけた。フサヱは畑を耕して自給自足のための芋や野菜の栽培に余念がなかった。なにしろ日本全土の主要都市は焼き尽くされて、町に住んでいた人々は親戚を頼って田舎に疎開し、田舎の人に助けられながらみんなで食料を分け合い必死で生活したのだった。

 このころ、日本では物資不足から強烈なインフレ社会となり、結果的に、1945年10月から1949年4月までの3年6か月の間に消費者物価指数は約100倍となった。このため、戦前に蓄えていた日本人の現金は紙切れ同然になってしまった。

9.昭和23年4月15日、大潟村の実家で次男誕生

10.克己の再就職

 強烈なハイパーインフレ社会の下で子供たちを学校に通わせ、家族に人並みの生活を送らせるために、克己は他所の貨物船風早丸の機関長として就職し、以降65歳になるまで仕事をし続けたのであった。

11.貨物船、風早丸での2交代勤務の厳しさ

 5代目の私は10歳くらいで一度きりだったが、一晩夕方から翌朝まで小松島から神戸まで、4代目の克己の勤務する風早丸(総トン数500トンくらい)に乗って、父の仕事の実情の一端を見学したことがある。大揺れに揺れる貨物船の海面下の狭いエンジンルームで黙々と働いていた親父の姿は立派でまぶしかった。 

 しかし、親父は元来まじめで、私と同じように社交性こそは控えめであったが、機械いじりが大好きだったので、あの厳しい仕事もきらいではなかったと思いたい。そして、いつか親父の部下の勇ちゃんが10歳くらいの私に「あんたの親父さんのことを尊敬しているよ」と教えてくれたことがあったのを今でも覚えている。その時、私は子供心ながらも、はっきりと父親の克己は人から信頼される立派な人なのだと思った。その後、父が91歳で永眠するまで私はいつも優しい父の背中を見ながら私も同じような人生を送るのだろうと思った。

12.昭和31年、3代目太田アサ死去、享年81歳

13.立派に養育され自立した子供たち

 長女、次女、長男(私)、次男の4人とも4代目太田克己の努力で養育され結婚して自立することができた。

14.まじめ一筋だった父の船員保険年金

 退職後、夫婦でそれを受け取ることができたので、克己とフサヱの生活には困らなかった。

15.妻フサヱ入院先で私の目前で永眠、1998年、平成10年10月20日、享年85歳

16.克己大潟の自宅で私の目前で永眠、1999年、平成11年11月22日、享年91歳

17.愛すべきふるさと大潟の風景

克己の兄弟姉妹