2代目のページ
1.氏名
(1)2代目亭主
氏名:太田直吉(男) 1855-1892、明治25年2月15日死去、享年37歳
備考:1855年とは、江戸時代の安政2年のことである。
(2)その妻
氏名:太田リヱ(女) 1856-1934、昭和9年1月13日死去、享年78歳
備考:1856年とは、江戸時代の安政3年のことである。
2.歴史的背景
1866年、江戸時代の幕末、坂本竜馬の活躍で薩長同盟なる
1868年、江戸時代の終結、明治元年となる
1894年~1895年 日清戦争(明治27年~28年)
1904年~1905年 日露戦争(明治37年~38年)
1912年、明治時代の終末、大正元年となる
1926年、大正時代の終末、昭和元年となる
3.直吉の成長
(1)幼年時代
幼年時代は家の前の大潟湾の干潟が直吉の遊び場だった。干潟にはアマモが生えている場所があり、そこにはクルマエビが潜んでいた。3歳から干潟で遊んでいた直吉は5歳になった時、偶然、そのクルマエビを発見したのであった。クルマエビは海底が干上がる時は飛来する鳶(とび)などの鳥から身を守るため、あらかじめ砂の中に穴を掘って潜んでしまうので、人間の子供が干潮時に歩いて行っても普段なら見えないようになっている。それを5歳の彼がどのようにして見つけたのだろうか?、実は彼は母のクマから「あさり(二枚貝の一種)」の掘り方だけは教わっていた。ある日、アマモの生え際でアサリを探っていた時のことだった。偶然、なぜかクルマエビが砂の穴からヒゲと目玉だけを出して外の様子をそろ~と伺っているのを見つけたのだった。もちろん、直吉が近寄るとクルマエビはあわてて穴の奥に逃げ込んだのだが、その頭をひっこめる一瞬の姿を直吉は見逃さなかった。そして、彼は胸をときめかせながら両手で慎重に穴の周囲の砂を払いのけていった。すると、たまらず姿を現したクルマエビ、ピョンピョンとあとずさりして逃げようとしたが、海底ならすばやく泳いで逃げれただろうが空気中ではむなしくその場で跳ねるだけだったのでなんなく直吉に捕まってしまったのであった。
家の前の大潟湾の干潟が彼の遊び場であった。江戸時代のこの干潟には「タイラギ」という大きな二枚貝が棲息していた。直吉は食用になるそれを探して遊んでいたのであった。
(備考:この干潟については、昭和の前半ころまでは確かにタイラギの稚貝を見かけたが、昭和後期の水質悪化で絶滅してしまったようである。)
(2)少年時代
磯に潜って、サザエやアワビを収穫していた。また、近所の漁師と仲が良くなり、沖の漁の手伝いもしていたようである。鯛や、ハモ、サワラ、等が、江戸時代には大潟湾の外海でよく釣れていたようである。
4.直吉の教養
阿波の国の大潟村は昔から漁業が盛んで、人口が多かったこともあり、江戸時代後半には後の大潟小学校の前身である大潟寺子屋が存在していたと推察できる。母のクマは健康で頑強であったこともあり積極的な行商を続け、直吉の教養に必要な収入を得ていたものと思われる。
直吉の態度や成績については、その子孫が総じて真面目で優秀であることから、想像にはなるが態度、成績ともに人並み以上であったと推察される。
なお、外国人から見た日本人の印象として、江戸時代でも田舎の人々が文字を書いたり読んだり算盤をしたりするのには驚いたとの話がある。
5.直吉の決心
大潟村では、ほとんどの子供が、将来は漁師か船乗りになるというのが慣習になっていた。漁師になるには父親が漁船を持っている漁師というのが通例で、父親がいない子供は船乗りになるしか道はないと考えられていた。そんな環境であったから、直吉は将来は船乗りだと心に決めていた。
6.北前船の存在
大潟湾には、台風が接近してくると、漁船だけでなく、大型帆船(北前船)が入港していた。
7.就職斡旋
大潟村にはそのころから、今でも船乗りの就職先を紹介する斡旋屋さん(福寿さん)が存在していた。
8.船乗り修行
最初はかしき(今でいう料理人見習い)として乗船する。直吉は寺子屋卒業と同時にかしきとして就職し船乗りになった。直吉10歳の春であったと思われる。
9.15歳で操縦見習いに抜擢される
優秀な直吉はすぐに上役に見込まれて15歳でかしきを卒業、同時に帆船を操縦する見習いに抜擢された。
10.以下の記述は、まさに想像であり、事実そういうことがあったわけではないが、
直吉が18歳の時、偶然大潟湾の浅瀬に座礁した他所の帆船を助けて離礁させ有名になったという。
大潟湾には湾内中央に浅瀬があり、大潮時の干潮時には干上がるが満潮時には見えなくなる。この浅瀬で時々不慣れな他所の大型帆船が座礁することがしばしばあった。こんな時たいていは大潮の満潮になるのを待てば自力で離礁できるのであるが、積み荷が重すぎたりすると自力では離礁できなくなってしまうこともあった。
こうした不運な状況に陥った他所の船を助けたのが、大潟村の太田直吉という青年であったそうな。干潟の上を歩いて船に近づいてきた直吉を見た船乗りたちは、そのオーラの輝きを見て、瞬時にこの人は神様の使いに相違ないとこの人の助けを借りればこの禍から逃れられると感じたとのことである。直吉の知恵は、まず座礁した船の積み荷をイカダの上に降ろす。そして、干潮時に浅瀬の船底の泥を除去すること。など奇想天外な知恵をあれよあれよと、しかも弁論さわやかに操出し、船乗りたちはいわれるがままに必死で実行し、その結果、大潮時であったことも幸いして、みごと離礁に成功し、さあそれからまずはお礼ということで、狭い太田家にみんなで集まり飲めや歌えやの大宴会を開いたのであった。
ちょうどその時、太田家の前の井崎旅館に偶然宿泊していた、風早勘十郎という後世に出現する石原裕次郎みたいな役者が、いったい何の騒ぎか聞きにきたという、すると離礁した船の船長がほろ酔い加減で「今回のできごとの一部始終をおもしろおかしく話だし、直吉さんは弘法大師の生まれ変わりにちがいない」などと真顔で役者に言ってしまったのであった。役者はこれは面白いと舞台の芝居に使ったりしたものだから、そんな話が村中どころか阿波の国一帯にあっというまに伝わったのであった。
11.そんなこんなで英雄の直吉は20歳で早くも一艘の船の船長を任されたという。
その後、日本では不慣れな大型湾のような港に入港する場合は、今でいう地元の水先案内人を臨時で雇うことが習慣化したのだが、その元は若き船長直吉の知恵だったということはあまり知られていない。
12.親孝行な直吉
母のクマに給料の一部を仕送りしていた。
13.直吉20歳の恋と結婚、1874年、明治7年のことだった。
那賀川の河口にある材木問屋で働いていたリヱという1歳年下の娘と偶然であって二人は運命を感じ結婚したのであった。
14.1875年、長女アサの誕生、以降次々とリヱは3人の娘を出産
クマは孫の子守りをして、リヱは家事に勤しみ幸福絶頂な直吉の家庭を大潟に実現した。
15.クマの死去 1889年、明治22年7月18日、享年69歳
直吉、大いに悲しむ・・・
16.リヱにとって、思いがけない直吉の急死 1892年、明治25年2月15日、享年37歳
死因は記録がないので不明、事故死ではなく、生前は間際まで健康であったと思われる。
17.明治25年、直吉の急死で、太田家最大の危機に直面する リヱ36歳 子供は娘4人
当時は、生命保険とか、年金制度はなかったので、いきなり収入がゼロになるという大ピンチ!!
(1)リヱは嫁ぎ元の那賀川の家に身の振り方を相談する。
しかし、明治の時代になって、武士は全員平民となり、生活は困窮していたこともあり、話は聞いてくれたが面倒まではみきれないとの反応だった。この時、長女アサ16歳、次女15歳、三女13歳、四女11歳、当時世間では主人が若くして死去した場合、女の子供を親戚筋に女中奉公に出して養ってもらうか、養女に出して引き受けてもらうしか取るべき道は限られていた。
(2)子供たちとの別れ、互いに励ましあい別々に生きてゆく
ここで、聡明なリヱの冷静な判断と、行動力がいかんなく発揮されて、家族は離れ離れにはなるが、悲しみと苦しみを乗り越えて、全ての子供の心は結束して互いに励ましあい、それぞれの運命の波をのりきって行けるように子供たちに言い聞かせるとともに其々の未来に向けた道筋を付けたのだった。
結果的に、残念ながらその詳細は不明だが、次女(千代)は奉公に、三女と四女は養女として他家の子供として育てていただくことになったらしい。長女アサは美人であったが弱視で難聴気味という体質から女中奉公には出せなかったようである。この後、もっとも苦労したのは次女の千代であったらしいが、三女、四女も同様に苦労したであろうことが忍ばれる。
(3)明治45年までの20年間、リヱは大潟で子供相手のお菓子屋を営むことを決意しこつこつと実行
といっても、店舗はなかったので、残された大潟の直吉の小さな自宅で営むことにしたのだが、家屋は村道から畑を隔てた奥まった一角にあって客が入れないという環境だった。そこで、リヱは隣との間に沿って畑の側面を削って客誘導用の私道を作ったりしたのだった。 また、商品の仕入れについても自分自身で遠方まで出向いたが、当時はまだ鉄道がなかったので商品の仕入れには何キロも歩いたり、那賀川の渡し船に乗ったりして難儀を重ねた。
18.明治35年、長女アサ27歳で結婚 婿養子:周次郎24歳、この時リヱ46歳
周次郎は椿泊出身の優秀な漁師であったが、結婚後は周次郎がリヱを助けて太田家の生活を支える柱となる。
19.リヱの死去 1934年、昭和9年1月13日、享年78歳
20.リヱの生涯と、子孫一同からリヱさんへの感謝のことば
生年1856年(安政3年)、那賀川の川奉行の子として産まれる、容姿端麗、利発な子として寺子屋を優等生として1866年10歳で卒業、その後、親の仕事を手伝っていたが、19歳で太田直吉と結婚、17年間は直吉の収入に支えられ4人の娘を養育しながら大潟の太田家のおかみさんとして、人生最高の幸福な人生を歩んだが、明治22年直吉の急死で収入が途絶え、一転して考えてもなかった悲壮な生活を送ることになった。にもかかわらず、4人の女の子にも言い聞かせて、別々の家に奉公に出したりせざるを得なかったが、助け合って未来を信じて生き抜くように指導したのであった。子供たちも離れ離れにはなったが、リヱの教えを守り、それぞれが励ましあい、大阪や徳島で新しい家庭を構築したのであった。
太田家代々の中で、おそらく最も苦労をしたのが、リヱさんであり直吉死後、周次郎が現れるまでの10年間はリヱさんなくして太田家の存続はありえなかった。このような先祖リヱ様の存在と行動に対して子孫の我らは改めて敬意を表するとともに深く感謝して、その指針に恥じないようにご先祖様を敬い生きていきたいものである。リヱさん、ありがとうございました。
参考データー
2.鉄道、牟岐線の歴史
牟岐線の歴史は、阿波国共同汽船会社が1913年(大正2年)に徳島~小松島間を開業したことから始まる。この路線は開業と同時に国が借り上げ運営し、1917年には正式に国有化された。1916年には、阿南鉄道が地蔵橋~小松島間に中田駅を作り、中田~羽ノ浦~古庄間を開業させた。この区間は、1936年7月に買収されて国鉄線となった。一方の国鉄線は、1936年(昭和11年)3月に羽ノ浦~桑野間、1937年6月に桑野~阿波福井間、1939年12月に阿波福井~日和佐間を順次開業したのち、1942年7月には日和佐~牟岐間が開通した。
その後1961年4月1日、牟岐線は起点を中田から徳島に変更して徳島~牟岐間の路線とされ、それまで徳島~小松島間の路線であった小松島線が中田~小松島間とされた。牟岐線は四国循環鉄道の一環として組み込まれ、牟岐から先の区間の工事も行われたが、1973年10月1日に海部まで開通した時点で、オイルショックと赤字ローカル線廃止の嵐が吹き荒れて建設はストップし、そこから先は国鉄線として開業することはなかった。
その後、第三セクター会社として設立された阿佐海岸鉄道により、海部~甲浦(かんのうら)間が1992年3月26日に開業している。