自然観察くらぶメンバーズに戻る

 

少年時代

     

少年時代のあらすじ

(以下に示す年齢は、主人公裕次郎の年齢で、横の数字はその時の西暦年を示します。)

0歳、2007年、阿南市大潟町で誕生、父親の年齢は37歳だった。

4歳、2011年、父親の転勤で松山市の社宅に転居

5歳、2012年、幼稚園の年中組、宇和島の大浦岸壁で日本丸との最初の出会い、心臓がドキドキする。

7歳、2014年、清水小学校入学、

9歳、2016年、3月、清水小学校3年、父親の失業、父母は社宅を出て大潟の実家に疎開、裕次郎は松山に残る。

   5月5日、日本丸と再会、将来乗組員になりたいと強く意識する、翌日、裕次郎はその決意を父に述べる。

13歳、2020年、勝岡中学校入学、松山観光港で日本丸に再会、船長と偶然の対面、裕次郎は進路を固める。

14歳、2021年、父親の再就職、母親は慣れてきた田舎での暮らしを継続

16歳、2023年、3月勝岡中学校卒業、3月弓削商船高等専門学校に合格、4月同校に入学、裕次郎は白砂寮に入寮する。

第一章

 裕次郎は暗い家の中でのゲーム遊びにあきあきしていた。彼は屋外に出て野山を駆け回るのが大好きだった。

 2012年、5月5日(子供の日)に、父母と祖父母の5人で、宇和島港に接岸し一般公開していた日本丸を見に行き、そのセイルドリル(帆を張る訓練)を見ていたら、ひとつひとつの帆が膨らむたびになぜか一瞬体全体の皮膚が身の毛だつような快感がして心臓がドキドキしたのであった。その時点で幼い彼がその理由たるや遺伝子の共鳴現象だったなど解ろうはずはなかった。

 それから4年たった2016年5月5日、小学校4年生(9歳)の初夏のこと、再び宇和島の大浦岸壁にヒョッコリやってきた「日本丸」を父母・祖父母と一緒に見に行った。このときは、船内見学会があり、裕次郎は日本丸に初めて乗り込んでその甲板や操舵器を見てまわったり手で触れてみたりした。すると、「日本丸」が「大きくなったら乗組員にならないかい」と言っているような気がしたのだった。

 

 その夜彼は不思議な夢を見てしまったのである。それは日本丸の乗組員になっている夢で大勢の親友と力を合わせて「セーノ、セーノ」とロープを引いて帆を張っている夢であった。そして、夢の最後は嵐に遭遇した日本丸の操舵器で必死に日本丸の梶を操作している自分の姿だった。

1.裕次郎の決意

 実は日本では100万人に一人くらいの割合で、小学校低学年の頃に日本丸を見て感動し、誰も教えないのにある日突然神がかり的に、「ぼくは将来、日本丸の船長になるんだ!!」と真剣な顔をして父親に宣言する子供がいるらしいのである。これは、持って生まれた最高の遺伝子が言わせているので父親はその場では言葉を失いただあっけにとられて不気味な子供の凄さに逆らうことはできない、その子供の背後にはオーラ(後光)が射しており、眼が不気味なほどランランと輝いているはずだ。

 しかし、そのような運命を背負って生まれてくる男子は100万人に一人はいるのだが、たいていは馬鹿な両親が相手にせず数日後には新しいゲームを与えたりしてせっかくの子供の決意を打ち消しだいなしにてしまうケースがほとんどなのである。だが、裕次郎の父親は普通の飲んだくれではなかった、「裕次郎よ、分かった、おまえは日本丸の船長をめざせ、しかし、船酔いをしたり海賊船にであったり苦しいことがいっぱい待ち受けているはずだ、そんなときは今日の気持ちを思い出すんだぞ」と優しく熱いまなざしで裕次郎に励ましの声をかけてくれたのであった。

2.裕次郎を励まし続けた祖父と裕次郎の絆(きずな)

 9歳の裕次郎は松山の学校で親友も多かったので、転校せず(田舎に行かず)に松山に住んでいる72歳の祖父のアパートから松山の小学校に通学していた。そして、年老いた祖父と祖母は短期間とはいえ裕次郎と暮らしている日々が楽しくてしかたない様子だった。祖父と祖母は毎日城山に登り健康を維持し「92歳まで生きるぞ」と言っていた。

 祖父は裕次郎を連れてよく魚釣りに出かけた。朝早く3時ころから古びたマイカーに裕次郎を乗せて、上灘の防波堤に通い二人は仲良く並んで小鯵(あじ)のサビキ釣りをするのであった。実はこれも先祖の遺伝子がそうさせているのだが、二人はそんな神秘的なことなどは知る由もなかった。釣ってきた鯵は祖母が調理してサシミにしたり、酢漬けにしたり、握り寿司にしたりして、3人で旨いうまいと言いながら食べていたのであった。

3.中学生になった裕次郎(13歳)と、日本丸船長との偶然のであい

 裕次郎は中学校も松山に入学して75歳になった祖父母と一緒に暮らしていた。その年の5月5日またもや「日本丸」がなんと今回は松山観光港にやってきたのだった。当然、裕次郎は日本丸のセイルドリルを見学しに行った。船長はなぜか裕次郎の顔を見て、「やあ~元気にやってるかい」と、まるで旧知の間柄だったかのように声をかけてくれたのだった。「はい、元気にやっています、船長、ぼくは将来日本丸の乗組員になりたいのですが、どうすれば夢をかなえられるのでしょうか?」裕次郎はせきを切ったように夢中で船長の顔をまぶしそうに仰ぎながら真剣な顔をして訪ねたのだった。

 船長は驚いた様子だったが、嬉しそうに微笑みながら、少年の質問にゆったりと丁寧に応えてくれたのだった。その内容をかいつまんで紹介すると、「そういう希望を忘れずに思い続けることがたいせつだ、そして、ここからだとまずは弓削商船高等専門学校の商船学科に進むのが良いと思われる、ただし、それだけでは海技士(三級)にまでしかなれない、日本丸の船長を目指すなら海技士(一級)の資格がある方が有利だ、そのためには更に専攻科に進むか商船系大学に進み実務経験を積みながら国家試験(一級)に合格したいものだ、しかし、一級の資格がとれても、航海訓練所の航海士の空席がなければ採用試験が行われないし、運よく採用されても日本丸には乗れないかもしれない、そのような運命の岐路が待ち構えてはいるが最後まで希望を捨てずにがんばれば夢はかなう可能性もあるんだよ。」難しい話なので幼い裕次郎にはすべてを理解はできなかったが、まずは弓削商船高等専門学校商船学科への入学というところだけはビシッと脳幹に響き「解りました、船長ありがとうございました。」と彼は直立し敬礼をしたのであった。

 船長は、嬉しそうに敬礼を返し、「今度会うときは弓削商船高等専門学校商船学科の君と会いたいものだ。しかし、何と言っても船乗りになるには健康で頑丈な身体作りが基本中の基本だから、学業首席だけでなく身体も鍛えておいてくれたまえ」と言ってくれた。

4.裕次郎の進路は決まった

 裕次郎は自分の進路は明確に理解していたし、家族も了解していた。ただ、問題は高専の入学金と授業料が果たして準備できるのか、それぞれが口には出さなかったが一抹の不安があったのは確かである。

5.高等学校等就学支援金制度

 国立高専の学生は、1年生から3年生までの間、国から一人あたり年間約11万8000円の授業料支援金が出ます。(学生が学校に支払う授業料は年間24万円弱なので半分は補助されるしくみ) これは、国が学生の将来に投資しているというわけで、この支援金は国民の税金によるものであり、税金を収めた人のためにも高専生は卒業したら日本社会に貢献しなくてはなりません。

例 弓削商船高等専門学校の場合

6.奨学資金制度の活用

 費用については、父親が再就職してなんとかしたい。それでも足りない場合は学校には奨学資金制度もあるので学校とも相談しながらいけるところまでいこう。これが家族の出した結論だった。

7.父親の再就職

 2020年1月、父親はA会社の貨物船国内航路の風早丸機関長として就職できた。 

8.裕次郎、弓削商船高等専門学校(商船科)への挑戦

 とにかく、中学校で首席であるならば、校長による推薦入学も可能ということで、裕次郎は中学校1年生から猛烈な勉強をした。特に、英語、数学、国語については筆記テストでは常に95点以上とれるようがんばった。そして、勉強だけでなく体育の部活(バスケットボール)にも熱心に取り組んだ。

 備考.弓削商船高等専門学校の学生募集要領商船学科(40名)について

 (1)中学校長の推薦による選抜(約20名以下)

 (2)学力検査による選抜(約20名以上)

9.2022年3月、裕次郎16歳に合格通知が来た、(弓削商船高等専門学校に推薦選抜で合格)

 夢に一歩近づいたわけだが、これは単なる通過点に過ぎないと思っている裕次郎は、同級生が学力検査合格で万歳と叫んでいる姿を見て、ふ~~ん、そんなに嬉しいものかなあ、ぼくも学力検査受けたかったよと冷静な表情で合格者発表掲示板を見ていた。

10.2022年4月、弓削商船高等専門学校商船学科に入学、白砂寮に入寮。クラブ活動はカッター部