壮年時代
29歳、2036年、運よく日本丸の二等航海士採用試験告示あり、受験して合格したがここではじめて上役の一等航海士が27歳の元後輩(弓削商船高等専門学校卒業者)であることを知る。
30歳、2037年、日本丸船長が定年退職、後輩が先に船長になってしまった。この年に長男直吉が誕生。
31歳、2038年、日本丸の一等航海士となる、自らは船長を補佐する本来の任務を忠実に実行する。
34歳、2041年、裕次郎の活躍で船長が出世して取締役となり海上から陸上勤務に栄転する。裕次郎は船長に推挙される。
35歳、2042年、裕次郎は、船長は別の人にと断ったが、上層部から他にはいないと言われ仕方なく引き受けることに。
36歳、2043年、キャプテン裕次郎は大勢の部下と実習生を乗せてホノルルへ向け初の遠洋航海のために横浜港を出港。
愛妻と、長男直吉が横浜に見送りに来たが、飛行機が遅れて既に船は出港した後だった。
40歳、2047年、日本丸船長になってから5年が過ぎようとしていた。長女理恵誕生。
41歳、2048年、ホノルルへ帆走で航海中、斜め右後方5マイルから国籍不明の黒い潜水艦が浮上して急接近してきた。
「このままでは衝突するぞ、エンジン始動、スクリュウ逆回転、甲板員は総員で帆をたため!!」
キャプテン裕次郎の命令が次々と的確に発せられ全員冷静に粛々といつもの緊急訓練通りの操作を行った。
巨大潜水艦はルール違反のまま高速で進路を変えず日本丸の直前を右後方から左前方へと横切っていった。
結果的に日本丸は洋上で全速力でバック(後退)してことなきを得た。
備考:国際ルールでは右後方からの高速潜水艦が進路を右にとって衝突回避し安全に追い越してゆくことになっている。
その後、裕次郎が42歳から52歳までの(2049~2059年までの10年間)日本丸は津波に出会ったり、何度も嵐に遭遇したりして幾多の困難に直面したが、その度に、危険予知、リーダーシップ、チームワークを発揮し、キャプテンが黙っていてもチョッサー(一等航海士)以下の職員があらかじめ危険を早め早めに察知し、適時適切な指令を発して総員はそれに従い持ち場を守り、助け合い協力して機敏かつ適切に回避してきたので無事故無災害記録を更新し表彰もされたのであった。
裕次郎の訓示はいつも明快で示唆にとんでいた。「これは当然のことなのだ、常に油断することなく、例えば東京湾のレインボーブリッジの下を通過するときは満潮時にはマスト天辺が橋にぶつかるので、あせらず大潮の干潮時まで辛抱強く待ってから帆ではなくエンジンでゆっくりと通過するんだぞ」などと、部下と実習生の前で教壇に立ち的確に指導して危険予知訓練とチームワークの大切さを説き、2060年以降も日本の全練習船で実習生を含めた総員による徹底的な危機管理が行われている。