秋雨
2020.09.16
捨てられ 戸惑う猫の子に 秋雨     光彦

■野良猫の親が見知らぬ人家(一見して裕福そうな家)の花壇に、自分の子を捨て、しかも「シャアー」と凄い形相で付いてこようとする子を叱りつけて、平然と立ち去る様子を目撃した。

その後、子猫は運よくその民家の人に拾われ、「トム」と名付けられて幸せに育つが、数年後のある日トムは突然姿を消す。
2020.09.16 13:02 | 固定リンク | 未分類
法師せみ
2020.09.14
無人駅の 生け花揺れて 法師せみ     光彦

■無人駅の待合室に誰かが花を活けてある。改札口からのそよ風に乗ってツクツクホウシの声が聞こえてくるのであった。 
2020.09.14 16:12 | 固定リンク | 新しい季語
新涼(しんりょう)
2020.09.12
■新涼とは

暑かった夏の終わりのころに、何かのはずみでふと感じる秋めいた涼しさである。

新涼や あぜみち香る 母の墓    光彦


2020.09.12 10:22 | 固定リンク | 新しい季語
法師ゼミ
2020.09.08
倒木に 寄り添いて鳴く 法師ゼミ    光彦

■強風で樹齢数百年のご神木が倒れてしまった無残な情景である。
2020.09.08 10:46 | 固定リンク | 未分類
土用波
2020.09.04
松の香や 轟わたる 土用波     光彦

■松の香りがほどよくわが身を包んでくれる場所で目前の豪快な土用波を観ていたところ、轟音は少し遅れてやってくるのに気づいた。
2020.09.04 17:59 | 固定リンク | 新しい季語
土用波
2020.09.03
土用波 崩れる前に 空(くう)を切る     光彦

■故郷の海岸、衵の浜に押し寄せる土用波の記憶である。押し寄せ盛り上がった巨大な波の波頭(がしら)をよく観ると、崩れる前に水煙を立てながら「シャーー」という音を立てているのであった。
2020.09.03 18:20 | 固定リンク | 新しい季語
くまぜみの産卵を目撃
2020.08.31
一心不乱 卵うむ蝉 森の朝   光彦

■クマゼミは8月も終わり頃になるとほとんど鳴いていません。そんな中で、産卵の様子を偶然観察できました。
2020.08.31 12:47 | 固定リンク | 未分類
明けの明星ーⅥ
2020.08.31
■観測の結果

少しながら分かってきたことがある。それは明けの明星の「星の出の時刻が毎日少しづつ遅れる」ということである。当日と翌日の比較ではあまり変わらないように見えるのでこういうことを知らない人もいるのではないかと思う。

今回、自分なりに「毎日少しづつ遅れること」が分かったので以下に記録しておく。

2020年8月18日は、午前2時42分だったが、本日8月31日では午前2時49分だった。そこで比較計算すると、1日ごとに約30秒づつ遅れて出てくるということである。

原因は金星と地球の規則的な位置関係が微妙に変化していることにある。

太陽系の惑星である金星と地球は、太陽からの距離は、金星の軌道が太陽にやや近く、地球軌道はその外側にある。この二つの星は無限に広大な宇宙の中では、隣り合っており、兄弟的な星と言われている。 つまり、両方とも太陽を中心に公転しているとともに、それぞれ違う速度で自転もしている。ただし、公転や自転の速度は互いに異なるものの、それぞれが、ほぼ規則的に動いているという特徴がある。

暗闇の宇宙の中で、他の星より格段に輝く金星が、地球の兄弟星ということさえも最近まで私は知らなかったのだが、今では真夜中に現れる金星を見るとなんとなく親近感を覚えるのである。

ただ、現在の地球は奇跡的に生物が生存できる環境になっているが、金星の現在は、想像を絶する高温下にあり、生物は生存不可能と見られている。
2020.08.31 10:21 | 固定リンク | つぶやき
明けの明星ーⅤ
2020.08.29
■2020年8月29日

未明の空は折よく雲がないようで松山にしては珍しく見知らぬ星々が見えていた。すると、
期待通り、午前2時47分に神秘的な「明けの明星」がいつもの位置に現れたのである。
いつもながら他の星を圧倒する明るさで、その大きさも信じられないくらい大きく見えるのであった。

金星が地平線から現れるときは、想像以上に大きく見えるだけでなく、明らかに速い速度で昇ってくるので、ますます神々しく見えるのである。

2020.08.29 20:25 | 固定リンク | つぶやき
初めての素潜り(子供のころの思い出)
2020.08.28
■70年前の実家の前は大潟湾で潮の満ち引きが顕著だった。
大潮時には干潮ではひ底になり、朝夕は満潮で満々と満ちてくるのであった。

当時、幼少の私は本能的に家の前の海を遊び場としていた、おそらく先祖たちも同じことをしていたに違いない。3歳くらいから干潮の干潟を裸足で歩きまわり小さな生き物と遊んでいたのである。ところが、満潮時の水中には興味はあったが泳ぐことも知らなかったので、海中に入ったことはなかった。けれども、成長するにつれ海中の様子を見たいとの思いがいつしかわいてきていたのであった。

そんなとき、徳島のおじさんにもらった小遣いでふと思いつきおもちゃのような水眼鏡をかった。そして初めて家の前の海におそるおそる首をつっこんで水中を観察したのが新たな遊びの始まりとなったのである。

海中は想像もしなかった別世界で、今でいう水族館のようなものだった。夢中になって背が立つ範囲ではあったが潜ってみると、自然に体が浮くことも知り、犬かきのような泳ぎも自然に覚えたりもした。

そして、最初に楽しかったのは海中の「小エビとの遊び」だったように記憶している。

2020.08.28 14:02 | 固定リンク | 未分類

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